(前回からの続きです)
こうして夜間の高校に通い始めた娘でしたが、残念ながらその生活も長くは続きませんでした。
本人の意気込みとは裏腹に…
やはり「学校」という社会(集団生活)から2年以上遠ざかっていた代償は大きかったのか、同年代とのコミュニケーションをうまく取れなかったようです。
教室という閉ざされた空間で他人と接するときに、不登校のきっかけになった苦い記憶がフラッシュバックしてしまうのかもしれませんね。
学校生活には戻りたい。
でも、一度失った自信を取り戻すにはもっと時間が必要かもしれない—。
そんなジレンマを抱えていたのかもしれません。
そんな様子を伝え聞いた時、カウンセリングを受けた先生の「まだ途中」という言葉が不意に蘇ってきました。
確かに明るい表情は取り戻せていたけれど、それは家庭という狭い世界の中だけのことで、心の奥底にあるわだかまりを払拭できていたわけではなかったのか—と。
一度などは「チャリで熊本へ向かう事件(?)」を起こして大変でした。
ネットで友達になった男の子が熊本に住んでいて、衝動的に「熊本へ会いに行く」と思ったらしいのですが、なんと自転車で向かったらしいというのです。笑
慌てて車で追って、30キロぐらいは走ったでしょうか。
警察の助けも借りながら、なんとか国道を走っているのを見つけてもらって事なきを得ましたが、一時はどうなる事かと思いました。
4年かけて高校を卒業
そんな不安定な時期ではありましたが、それでもフリースクールの時のように簡単にあきらめることはありませんでした。
通学を続けるのは難しくなったけれど、それならばということで「通信制」に編入し直すことにして、アパートも引き払って実家に戻ってきました。
そして、仲良し兄妹が何を話し合ったのかは不明ですが、二人でコンビニのバイトの面接に行くというのを聞いて、これは嬉しい驚きでしたね。(頼りない兄が時にいい仕事をする)
で、兄だけが面接に落ちました。爆
兄の方は社会生活不適合者、決定です。(妹以上にひどいコミュ障なので、ね)
音楽とPCいじり以外は何もできない人です。
それでも新聞配達の職を見つけてきて、それは長く続きました。(人と話す必要がない仕事が向いてた)
娘の方に話を戻すと、
コンビニでは同年代のバイト仲間の女の子と仲良くなったようで、そこは大きな一歩でしたね。
仕事自体はテキパキできるタイプなので心配していませんでしたが、対人関係だけはどうかな?と思っていたので。
通信制に変わった高校の方は、月に2回程度?(忘れたけど)電車に乗って登校するのですが、そこでも気の合う級友を見つけたようでした。(やっとです)
担任の若い先生も音楽活動のことを知ってだいぶ褒めてくれたらしく、家でも担任のことを明るく話してくれたりしました。
そんないい出会いにも恵まれて、4年かかりましたが高校も無事に卒業。
素直に嬉しかったです。
今度こそ、「もうこの子は大丈夫」だと思いました。
自分さがしの旅は続く
もう大丈夫、になったのはいいのですが、狭い世界に引きこもった反動が来たのか、今度はやたらと遠くへ行きたがるようになっていきました。
新潟のスキー場でサブウェイの短期バイトをしたのを皮切りに、箱根の温泉場に行って住み込みで働いたり、相模原や大阪まで行って飲食のバイトをやったり・・・。
僕たちは「自分さがしの旅」と勝手に呼んでいましたが、それにしても「いつまで探す気なんだ君は?」っていうぐらいに、あちこち行ってましたね。笑
まあ基本的には料理が好きだから、ゆくゆくは飲食業で生きていきたいという考えに行き着いたのだろう、と。
音楽の才能があるのに料理? という疑問符がつかないわけでもないが、本人的には歌でプロを目指すという考えはほとんど無かったようで、それは趣味の範疇に置きながら現実的な目標を選んだということでしょう。
飲食業への道も平坦ではない
やがて長い旅を終えて帰郷。
趣味としての音楽もやりながら居酒屋のバイトなどをやっている中で、職場で知り合った男性と結婚の一歩手前まで行きます。
ここまで触れていませんが、実は我が娘、行く先々でいろんな男性と付き合っていて、結婚まで行きそうになったのも初めてではありませんでした。苦笑
なので今回もすんなり行くかどうかは五分五分という感じでしたが、案の定、寸前で破綻。笑
同棲していたアパートを引き払ってまたまた実家暮らしとなるのですが、今度は音楽活動の中で知り合った男性と付き合うようになり、お互いに飲食を目指しているということで意気投合して、あれよあれよという間に結婚することになります。
この時、すでに32歳ぐらい?
誰かと結婚して普通の奥さんに収まる姿を全く想像できていなかったので、嬉しいような、そうでもないような…。笑(むしろ「意外」という感じ)
結婚後、二人で仙台へ行って飲食店で働きながら開業資金を貯める—という構想だったらしいのですが、夫の方が「店のレベルに追いつけない」とか言い出して挫折したらしく(笑)、そもそもの構想が崩れてしまいます。
僕らにとっては待望の孫も産まれてそこまでは良かったのですが、夫婦の仲は想像以上にギクシャクしていたらしく、二人で飲食店など夢のまた夢—という感じになってしまいました。
そして現在に至る
仙台を引き払ってまたまた帰郷。(何度目だ?笑)
少しの間、娘と孫だけがうちで暮らした後、夫の実家に越して娘は子育てに専念していたわけですが、夫婦間のギクシャクがますます大きくなってしまったらしく・・・
先週から、娘と孫が再びうちで暮らし始めました。苦笑
孫が超絶かわいいので僕らは嬉しいのですが(笑)、娘夫婦にとっては先行きが不透明なままの別居になってしまい、今後どうなるのかはわかりません。
娘の結婚を“意外”と書きましたが、それ以上に意外だったのが、娘が我が子に対してとても愛情を持って接している姿でした。
特別に子供好きな様子などは一度も見たことがなかったし、むしろ苦手な方なんじゃないかとすら思っていたので。
過去を振り返ると僕は長男よりも娘の方をより可愛がってきていて、奥さんが嫉妬するほど仲良しの父娘だったと思うのですが、その分、母親と娘の関係はどこかぎこちないままだったような気がしていました。(僕には話すことを母親には言えない)
亡くなった母曰く「○○ちゃんはお母さんがいつもいなくて寂しそうでかわいそう…」。
そう言われて当時は苦笑いするしかなかったのですが、今になってみると、母娘の関係は大きく変わっていることに気づきます。
そもそも娘が料理に興味を持ったのは母親が料理する姿を見ていたのが原点だと思うし、子育てに関しても保育士をやっていた母親に頼る部分が大きく、僕の出番は今や孫のためのおもちゃやベビーシートなどを買ってあげる時ぐらいで。苦笑
幼い頃は上の子と違って「普通の子」だと思っていた娘。
子育て中も、しょっちゅう入院したり学校では異端児で手を焼いた長男と違い、全くと言っていいほど手がかからなかった娘。
そんな娘がある日を境に「兄以上の手のかかり方」をしたわけですが、その3〜4年の間の落ち込みぶりを振り返ると、今、母親となって子育てに奮闘している姿がただただ眩しく、頼もしく見えて仕方ありません。
もしあの頃、思いつめて衝動的に手首を切っていたら…と想像するとぞっとします。
粘り強く思いを伝え続けてよかった。(と思いたい)
「ただ、お前がかわいい。それだけだ。」
そんな親の、素直な思いを。